John Stubblefield
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Biography

194524日、アーカンソー州、リトルロックで、3人兄弟の長男として生まれる。9歳でピアノを習い始め、幼くして音楽の才能を開花させる。中学で、テナーサックスに持ち変え、友人の家族と結婚したカウント・ベイシー楽団テナー奏者ドン・バイアスに影響を受け、中学・高校のスクールバンドで大活躍。

1961年、早くも地元フラミンゴ・クラブにて、毎週R&Bバンド“ヨーク・ウィルバーンとスリラーズ”で、プロミュージシャンとして演奏。9人編成のバンドを編曲していたT・ロイ・ベットンに編曲の勉強を薦められ、トロンボーンのリチャード・ボーンより編曲の個人レッスンを受ける。こうして早くからテナー奏者のみならず、ビッグ・バンド編曲までも両刀に磨きをかける。

在学中から才能を発揮し、ドリフターズ、リトル・ジュニア・パーカー、ソロモン・バーク、O. V. ライト、ジャッキー・ウィルソンその他のR&Bバンドで南部や中西部をツアーする。1963年には、メンフィス州、スタックスにて“ヨーク・ウィルバーンとスリラーズ”と共にレコーディング。

奨学生としてアーカンソー州のO. V. 大学でその他の木管楽器を勉強し、オーケストラで演奏した。そして、1967年、リトル・ロックのインターカレッジ・ジャズ・フェスティバルにて「最優秀ソロイスト賞」を受賞。自己のクインテット“ニュー・ディレクョンズ”を結成し、1968年、アーカンソー大学の委任により英国、ロシア、中東部をツアーする。1989年、そのバンドは再び同大学の20周年記念コンサートで熱演。

1967年、卒業後イリノイ州シカゴに移り、絶頂期に会ったA.A.C.M.に参加。 A.A.C.M. ビッグ・バンドの作・編曲者ムハール・リチャード・エイブラムスから作曲のシリンガーシステムを勉強し、さらに、Delmarkレーベルにモーリス・マッキンタイヤーやジョセフ・ジャーマン達と共にレコーディング、自己のアンサンブルをリードする。この時期、ヴァンダーロック大学やインディアナの大学で修士課程を取り、連邦予算音楽課程シカゴ公立学校制度で指導。

1971年、ニューヨークに移り、Jazz Interactions, JCOA, Collective Black Artists, the Jazz Repertory Companyに所属する。1971年から1975年にかけてメリー・ルー・ウィリアムス、チャールズ・ミンガス、サド・メル・オーケストラ、ギル・エバンス・オーケストラ、フランク・フォスター・ビッグ・バンド、ビル・ハードマン等と演奏する。また、マイルス・デイビス、マッコイ・タイナー、ダラー・ブランド、アンソニー・ブラクストン、ロイ・ブルックス、ムトーメ、レジー・ルーカス、レスター・ボーイ等のレコーディングに参加。1974年、ギル・エバンス・オーケストラ、ダラー・ブランド・アフリカン・スペース・プログラムで、ヨーロッパをツアー。その年、the faculty of the New York City Jazzmobileに参加し、20年間指導する。1974年から1975年、セシル・マクビー・6tet、ビリー・テイラー・バンドに参加、1975年から1977年、ナット・アダレー・ベイシック・ブラック・バンドにて、レコーディンク、U.S.ツアーに参加。

この時期、多岐にわたる活躍にますます磨きをかけ、マーヴィン・ゲイ、ダイアナ・ロス、ラテンの王者ティト・プエンテ等のブロードウェイショウーで演奏。また、1973,1976,1978年の三度に渡り、ダウンビートの批評家投票による“Talent Deserving Wider Recognition”(最も認められるべき才能)を受賞。

1975年、初のリーダーアルバム「ミッドナイト・サン」を製作(1980年、Sutra Recordsよりリリース)、さらに1976年、「プレリュード」をStoryville Recordsでレコーディング。その後、彼の作品はメリー・ルー・ウィリアムス、ハンク・クロフォード、ロイ・ヘインズ、特に最近ではケニー・バロン、ビリー・ハート、ジェリー・ゴンザレス達に取り上げられる。

1983から1984年、ニュージャージー、ラトガーズ大学でサックス奏法、ジャズ作編曲を指導。また、ラトガーズ・ジャズ・アンサブルを監督指揮し、その春、Notre Dame Intercollegiate Jazz Festivalにて最初のRutgers Music Departmentを受賞。

1980年から数年に渡り、アルバート・デイリー、セシル・マクビー、ビクター・ルイス、マルグリュー・ミラー、マービン・スミス、マイク・ノック、ジョージ・ケイブルス、キース・コープランド等による自己のカルテットを結成。1979年から1983年、レジー・ワークマン・バンドの奏者・音楽監督に、1982年、ヘンリー・ウイテイカーのバンド「ジャイント・ステップス」の共同リーダーになる。その年、レブロン男性コロン・コマーシャルのためのジングルを作曲。

1984年秋再び、ヨーロッパをリーダーあるいはランディー・ウェストン、フレディ・ハバード、チャーリー・へイデン、ミンガス・ビッグ・バンド、マッコイ・タイナーのメンバーとして定期的にツアー。1986年、中村照夫のライジング・サンで、初の日本ツアー。1988年、二度に渡りケニー・バロン・バンドでアジア各国を回る。

1984年、「コンフェッシン」をSoul Note Records1986年、「ブッシュマン・ソング」、1987年、「カウンティング・オン・ザ・ブルース」をEnjaにレコーディング。その他80年代にはTeo Macero, Kenny Barron, Julius Hemphill, Oliver Lake, Jerry Gonzalez, Luis Hayes. Abdullah Ibrahim , Teruo Nakamura等、25枚以上のアルバムに参加。

1990年代にも、リーダー、ミュージシャン、作編曲家と活躍しつづけ、既に1995年中頃には25枚以上のCDに参加。1990年、8枚目のリーダーアルバム「ソフィスケイティッド・ファンク」をCheetah Recordsよりリリース。1993年、Enjaに「モーニング・ソング」レコーディング、1994年、リリースし評論家達より絶賛される。コンサート、ジャズクラブ、ジャズフェスティバルとアメリカ、ヨーロッパで活躍を続け、1995年には、オーストラリアでデビューを果たす。

1993,1994年、マッコイ・タイナー・ビッグ・バンドのレギューラー・メンバーとしてグラミー賞受賞。1994,1995年、ジェリー・ゴンザレスのフォート・アパッチ・バンドのCD“Crossroads”“Pensetivo” 1995,1997年、ミンガス・ビッグ・バンドのCD“Gunslinging Birds”“Live in time” における演奏でグラミー賞ノミネート。1977年、フォート・アパッチ・バンドでプレイ・ボーイ・ラテン音楽人気投票賞受賞。1988年、第1回年間ニューヨークジャズ大賞にてフォート・アパッチ・バンドでベスト・ラテン賞(評論家による)、ミンガス・ビッグ・バンドで‘Best Artist Band in Performance’, ‘Best Performance ’ ‘Best Big Band’(評論家による)を受賞。1999年、第2回年間ニューヨークジャズ大賞にてミンガス・ビッグ・バンドで‘Best Band on Tour of the Year’を受賞。1988年、the Arkansas Jazz Hall of Fameに任命される。ケニー・バロンのアルバム“things Unseen”から“Marie Laveau”でサックス奏者 1999 グラミー賞受賞。

リーダーとしてジョン・スタッブルフィールド・カルテット及びクワイエット・ファイヤーを率い、ミンガス・ビッグ・バンド、ケニー・バロン・クインテット、ビリー・ハート・セクステット、ワールド・サキソフォン・カルテット等で活躍中。1994年から1998年まで、その独特なサックス・サウンドはFox 5テレビ・シリーズ“New York Undercover”で放映。ミュージシャンとして以外にもさまざまな講演や指導で国際的に活躍。2000年より毎年、日本を訪れ大阪を中心に演奏中。200233日(日)第2回 Big Jazz River(竹下清志p西山満b石川潤二ds 場所:大川バレエ教室)、923日(月)第4回 Big Jazz River(橋本裕g橋本有津子org西山満b塩入基弘ds 場所:松竹試写室)に出演。

2004年4月3日、前立腺癌で入院。その後も闘病の中ミンガス・ビッグ・バンドへのアレンジ提供。
2005年5月24日、Katherine Gogelと結婚。 
2005年7月4日、永眠・・・・・・・・・・